鰊の群喜(くき)

先日、積丹沖で獲れた立派な鰊を食べた。
今から55年も前の子供の頃、小樽の実家の物置にぶら下げてあった身欠きにしんをふと思い出した。
お婆ちゃんが作った身欠きにしんは、油が乗ってそのまま食べてもおいしかった。
よく物置に行っては、その干した鰊を食べたっけ。お菓子もあまりない時代の立派なおやつだった。
今、ニシン漬けにするみがきニシンは、アメリカだのロシアだのの輸入品になり、国産は高くて手が出ない。しかも、人工の油を塗っているものもある。
十数年前小樽の祝津の店先で炭火で焼いた鰊を食べたけど、それはロシア産だった。
母ががっかりして「あー、あのうまい鰊はもう食べられないのか」と残念がったっけ。
余別の鰊場の網元の家に生まれた母は、鰊の群喜の時代に生きてきたので、その衰退を事の他嘆いていた。
先日の新聞に、小樽の海が群喜で真っ白になっているのを見たが、母が生きていたなら、どんなに喜んだろうと思った。
余別の灯台に行く海岸線に鰊小屋があったそうで、毎年、お盆の墓参りの後、その場所で泳いだり遊んだりが実家の恒例だった。そのたびに、母は繁栄を極めた鰊場の様子を話してくれた。
なんでも、銀行を持つほどの繁栄した網元も、本家筋の一人の放蕩息子が一代でダメにしたそうな。
母は〆二の出だから、〆一の跡取り息子のその放蕩ぶりをよく話してくれた。
裕福な家に育った母は、あの当時誰も着ていないセーラー服で学校に通っていたそうだ。みんなと違う服装が恥ずかしくて嫌だったそうだ。
だんだん鰊が獲れなくなり、鰊場も網元も衰退し、かっては栄えた余別や来岸も、今はひっそりとした寒村になり、ただただ、海の景色だけは変わりなく・・・でもないか、20年くらい前、余別に育ち、漁にも出ていた産みの父親が、余別の海を前にして「見てみれ。この海。昆布も海草もこんなに少なくなって。あー、もうだめだな」と言った。沢山の思い出が詰まった余別は、私の原風景。恋しくて懐かしくて切ない余別。
もう二度と行かれない念仏トンネルの、あの暗黒を時々思い出す。