厳しい現実

人生はいつ何時、何がおきるかわからない、と65年生きてきて様々な出来事を体験してきて、いつも思っている。
びっくりして、心臓が飛び出しそうになったり、ショックで言葉が出なかったり、何だか考えると本当に色々な事があった。
しかし、一昨日の出来事は、あまりにも重く、突然やってきた。
つい先日、一緒に楽しいハワイの旅をしたばかりだった。まだ、写真も整理していないし、ゆっくり話す暇もないほど、お互いに忙しい一週間だった。
来週は、有珠の家に掃除をしに行く予定だった。
パークゴルフの帰りに、その悲劇は起きた。
体のあちこちを骨折した義姉は、それでも意識はあった。
ああ、死んでいない!生きている!
そして、3日めの今日、姉は見違えるほど、元気を取り戻していた。
凄い!動かなくなったら大変だから、と痛みを我慢して足を動かしていた。
ベットをおこして、自分でご飯も食べられるようになった。
床づれになりたくないからと、痛みを堪えて少しずつ体の向きを変えているという。
だって、腰の骨も折れているんだよ。
凄すぎ!
いや、彼女ならきっと診断より早く快復するだろう。今日、張りのある声を聞いて、確信した。
そして、もう一つの厳しい現実は、同乗者の容態。かなり厳しい容態で、姉もその方の心配をしている。
兄はこれからの人生をかけて、姉と同乗者を守っていくだろう。
責任感と信仰心の篤い人だから。連れ合いと共に、支えになっていきたいと願っている。
そんな、状況の中、ちょっとした言葉で姪が傷ついている。
父親の支えになって、父親の側にずっとついて懸命に気を張って頑張っていた姪は、私の前で泣いた。今、必要ではない言葉をかけられて。
それは、気遣って言った言葉だったろうけど、今かける言葉ではなかった。
心からの優しさと、思いやりがあったなら、もう少しそっとしておくべきだったと私も思う。
姪の背中を撫でて、一緒に泣いて話をじっと聞くしかできなかった。
言った本人も悪気はない、あんた、なんであんなことを言ったの?と問い詰めた所で、仕方がない。
でも、姪がその言葉にズタズタになった事だけは、伝えた方がいいのかどうか、思い迷っている。
姪が私に打ち明ける前、同じ言葉を聞いたけど、まさか、姪に直接言ったとは。
言葉の持つ威力は、時には凶器にもなる。
私も、気をつけよう。
人事ではない、誰でもが持っているから。
今回おきたことは、取り返しの出来ない厳しい現実ではあるけれど、後ろを振り向いたところで、せんないこと。同乗者の快復を祈りに祈って出来ることをしていくしかない。

時として、先生とか学者とかそういう類の人達は、学問的に医学的に、こうこうこうだから、こうなります、と結論付ける。しかし、学問どうりにはいかないことも多々ある。
こういう体験をしたら、人はこんな風になります、って額面道理に行かない場合だってある。
いや、そんな患者さんを沢山見ていますから、っていっても、すべての人が当てはまらないと私は思うけど。時として、学問は必要ない場合もある。
体験として、肝硬変の末期だった母は、医学的には治癒は不可能だった。
医者に「自然療法でみたい」と言ったら、お前、アホか?という態度をされた。
しかし、心を尽くして看病した結果、肝硬変は完治した。
たった、一か月、心を尽くしただけで。
人生にはそんな常識では考えられないことが、ゴロゴロしている。
だから、決めつけは何も生まないと、私は母の病気で学んだ。
兄の心理状態を心配するのは、いいことだけど、学問上の決めつけは、今は必要ない。
我々外野席は、どうしたら助けになれるだろうか、とそのことだけ考えればいいのではないだろうか。