チエンマイ山岳民族の孤児院

母の看病に毎日のように小樽に通っていた8年ほど前、帰り道、駅の本屋に寄って本を探していた時、突然目に飛び込んできた男の子のアップの笑顔。
その笑顔に引き付けられてページを開いたら、なんとチエンマイの孤児院の事を書いた本だった。チエンマイは、一度行って、たいそう引き付けられた街だったので、直ぐ買って読んだ。
日本人の看護師の上野さんと言う方が、仕事で山岳民族の村にいくうちに、エイズで子供を育てられなくなったり、親が亡くなってしまった孤児が沢山いることを知り、私財を投じて孤児院を作り、そこに関わった一人の若者が本にした。それが「スマイル」という本。残念ながら上野さんは癌で亡くなり、後を引き継いで、上野さんの御兄弟が代表をしているが、運営はすべて日本人の寄付で賄われている。読んで直ぐその「希望の家」の会員になった。
年に数回衣類や文房具や寄付など、自分の出来る範囲でさせてもらっていた。
いつか希望の家の子どもたちに会いたいと思っていたら、その願いは叶った。
息子がチエンマイにリサイクルショップを開き、頻繁にタイに行くようになったある日「母さん、支援している孤児院の名前教えて」とタイにいる息子から電話がきた。
そして、息子と希望の家が繋がった。
2年前、孫と行ったチエンマイ、息子に行きたいか?と聞かれ訪ねた希望の家。
6年生だった孫は、2年生で母親と生き別れしている。親なしの生活を3年過ごし、やっと父親と新しい家族の生活に落ち着いたが、その間、世界には両親もなく元気に暮らしている子供達がいるということを、孫に伝えたいとずっと思っていた。
だから、私が希望の家に孫を連れていくことは、かねてより思い願っていたことだった。
行く前、あれこれ子供達の喜びそうな、文房具や様々なプレゼントを孫と2人で嬉々として準備していた。
しかし、息子は何も持っていかなくてもいいからと、折角用意したものをすべて却下された。腑に落ちないどころか、少々息子に腹を立てながらの出発だった。
そして、希望の家にいく前に立ち寄った大型スーパーで、私はカルチャーショックを受けた。
ここはアメリカか?と錯覚するくらいの大型店、何でもある。フードコートは、日本と同じ回転ずし、スパゲッテイ、うどん、マック等など何でも揃っていて、家族連れでいっぱいだ。
食料品売り場は、ドでかい紙パックに入ったオリーブオイルが600円位、すべて物価は安く、息子は大きなカートに米、油、調味料、お菓子類、文房具と次々に入れてゆく。
これだけ買っても1万円位と聞いてびっくりした。
カート3台分満杯で1万円?
これでまた少し持つだろうと息子はいう。
そうか、日本人のお古ではなく、新品の物が日本の3分の1以下で買えるという現実。
長い間の念願だった希望の家、チエンマイの田舎の田んぼの中にある希望の家は、丁度子供達が学校から帰ったところだった。いつも、希望の家便りで子供たちの事は把握していたけど、みんな大きくなって、誰が誰だかわからない。
園長のタッサーナさんと息子はタイ語で親しそうに話している。
彼女は英語も堪能なので、英語で会話を少しだけした。
もとはと言えば、私が支援していたことがきっかけで、息子が出入りしだしたのだけど、今息子はタッサー二さんとかなり親しげにしている。
いいんだけど、なんかなあ。そして、息子が生意気に言っていた意味がわかった。
日本から私のように、衣類など結構沢山送られるらしく、部屋の片隅に衣類が山と積まれていた。
もしかしたら、私が送った物もあったかもしれない。
これって善意の押し売り?良かれと思ってしたことが、そうでもないって事を、目の前で見せられ、愕然とした。
「母さん、お金だとね、現地で色々に使い道があるんだよ。何でもいいってわけじゃないんだよ」ちょっとしたショックだった。
もうここは息子にバトンタッチしよう、そう心の中で決めた。
そして、さっき息子のブログを見たら、希望の家に持って行く物をわんさか買っている映像と、子供達を抱っこしている映像を見た。
あそこに息子はもう溶け込んでいる。子供達に懐かれ、タッサー二さんに当てにされている。
私は道をつけただけ。これから先は息子に任せよう。バトンタッチだ。
タイの山岳民族の村で何故エイズが蔓延しているか。貧困と無知、そして犠牲者は子供達。
今でも、その数は減らないどころか、増えている。
一人の日本女性が立ち上がって切り開いた希望の家、今でも金銭的に苦労している。
大学まで行く優秀な子供もいて、学費にも相当お金がかかるらしい。
私も年金生活者なので、微々たるものしか支援はできないけど、出来る範囲で支援は続けていきたい。物資と心の支援は息子に託して。

福島に一時帰宅していたsさん達が札幌に戻ってきた。
「札幌の市民になりました」やっとつけた決断。
「逃げた私達は裏切り者?」そう言って泣いた日もあった。
放射能から子供を守るために出した決断に、何故同じ同胞が裏切り者、逃げるのかー等むごい言葉を投げるのだろうか。今しか見えない人々、でも、責められはしない。
かれらもまた、そこで生きていくのが精いっぱいだから。
1年たってやっと泣けるようになった婆ちゃん、1年たっても苦難はますばかりで、毎日泣いても涙は枯れないママ、どうかパパの鬱がうつりませんようにと、せめて明るく話しをして前を向こうよとしか言えない私。

断しゃりがはやっているらしい、流行りだからではなく、そろそろ仕舞い支度を考えていたので先日からあちこちかき回して整理しだした。
大事にとっておいた大切な手紙、若かりし頃の日記や、書いた詩のノート、ありとあらゆるものをごみ袋に押し込めた。その中で、小樽の松枝中学に教育実習に行った時、生徒から貰った手紙が出てきた。孫がやってきてそれを読み始めた。「あーちゃん、声が小さいって書いてあるよ。信じられない。スゴイおおき声で怒鳴りまくっているのにさ。へー、先生、厳しいとか書いてあるよ。ホー、可愛いだって。授業丁寧で分かりやすいだって、、、、」何十年前だったろう。母校に教育実習に行った時、まだ昔担任だったキク婆さんがいたし、竹原先生とかもいた。「あーあのアツコちゃんかい」と言われ、全く勉強の出来なかった私は、少しは先生方を見返したいと多分思っていた。丁度、石原慎太郎の「青春とは何だ?」小田実の「なんでもみてやろう」とかにかぶれていたので、離任式の時、五〇〇人以上の生徒を前に、演説をぶった。今思えばあれって何だったんだろうと不思議だけど、かぶれていたので、言葉が次々に出た。胸はドキドキ高鳴っていたけど、話さなければという正義感にかられていたのかも。
「アツコチャン、あんた立派になったねえ。すごいね」みたいな褒め言葉をキクばあさんから貰った覚えがある。
きっと、その言葉が欲しかったんだと思う。なんたって、頭の悪い勉強の出来の悪い私だったから、いい振りしたかったんだろうなあ。それと、キクバアさんのやり方に、いつも腹立てていたから、反発精神だったかも。思わぬ自分の一面に、自分で驚いた。あの青春の一コマが、今日蘇って、証拠品はゴミに消えた。

ついでに、工具類やこまごまとしたひもやなんやかんやの場所の整理、もう何年も使わない物たち、結構すっきりした時、連れ合いが氷割から家に入ってきた。
私の捨てたゴミ袋を覗いて何やら怒っている。「おまえは俺の物何でも捨てる」自分でもあることさえ忘れているしょやと心で思うが声には出さない賢明な妻、いや、もっと賢明な妻なら徹底的に内緒で敢行するべきだった。「ギターの調子笛どこやった?それも捨てたのか?」いえいえ、そんなのはありませんでしたと言っても、信用しない。じゃ、ゴミ出してみんな見るか?と言いたかったが、面倒なので「なかったよーーーー」で突っぱねる。今にどこからか出てくるんさ。その時は、私に言った言葉は忘れている。
本当は背広も捨てたい。全く着ない背広の数は半端じゃない。
5,6着捨てたって本人は気付かないかもしれないけど、でも、やはりそこまでは出来ないなあ。第一線で働いていた時の汗と涙の沁みこんだ背広だから、これだけは本人の許可を得てからにしよう。結局、ま、いいからとっておけというセリフが帰ってくるはず。
あまり捨てても、「そんなに捨てたかったら、お前も捨てるぞ」とか言われたらちょっと困っちゃうからねえ。

春めいたいいお天気の一日、ふと見ると庭のクロッカスも咲いていた。ああ、お花もいよいよさくのね、と嬉しくなった。
布団も少しだけ干して、羽毛の掛け布団をホロって戻す時、サッシの金具に引っかかって破れ、中から羽毛が飛び出した。
つぎはぎして、証拠隠しにカバーをかけ、やれやれ、余計な仕事だったわいと自分のドジさにため息つく。でも、あまりにいいお天気なので、気分は良好。
ああ、あったかい春の日差しってフンワカ心まであったかくなるのね。