散歩の途中

散歩していると色々な面白いものに遭遇する。
昨日の朝も、家の前に大きなペットボトルが何本も置いてあるのに遭遇。
それだけならビックリもしない。
猫とか犬のオシッコよけで置いてある家はけっこうあるから。
でもでも、そこにマジックで書いてある字にウヒョーとなった。「オシッコさせるな」は、まだ「うーん、余程被害にあっているのね」と納得もする。が「呪」という一文字には驚いた!
たかが、犬猫のオシッコに呪いをかけるのか?
それとも、飼い主に向かっていう言葉か?ペットボトルに黒マジックで大きく「呪」。
それを書いた人って、どんな人だろう?
余程潔癖なお人なのか、怒り心頭許せぬ!と思ったのか、飼い主の良心に訴えかけたのか。
どんなお人が書いたのか、私の想像力をもってしても、見当がつかないなあ。しかし、平和な世の中だねえ。私が子供の頃、犬はほとんど放し飼いで犬も猫も人間と共存して生きていた。そこいら辺に犬がいて、時々、交尾したままの犬達もいたりして、子供心に何やってんだ?猫は春になるとニャーゴニャーゴとうるさくて。
そうそう、ベトナムでは街中でも犬は放し飼いだった。食堂のテーブルの下にいる犬は、お客が残した残飯や肉の骨などを当然の如く食べていたっけ。暑いのでほとんどの犬は日中の動きは鈍く、余程の事がない限り襲ってくる気配はない。しかも、どの犬もガリガリにやせ細っていたなあ。
そうか、野良猫に「呪」なんて読めないから、あれは、きっと犬の飼い主に向けた言葉だね、きっと。そんなところに、使う言葉か?それとも心の病か?
 
今朝のこと、月寒の菖蒲園の雑草に朝露がついて、宝石のように光っていた。
枯れかけたススキの穂に朝日が一筋注いで「あら、あなたはスターみたいねえ」と見とれてしまった。白樺並木の向こうの牧草地から朝霧が一斉に立ち上り、その美しさに時を忘れた。小樽の天狗山の麓で毎日、山と海と景色のある所で過ごした私は、ここ月寒にしばらくいると、無性に自然が恋しくなる。ベランダから切り取った絵のような小さな空の断片でも、ここから宇宙に繋がっていると思う事もあるが、それでも時々、無性に大きな空や海が恋しくなる。
だから、散歩に出て、小さな自然にでも心が癒される。
でもそろそろ、自然の木々が恋しいなあ。