たおやかな雲

私は雲を見るのが大好きで、暇さえあれば空を眺めて雲を見ています。今、事務所の留守番をしながら、ふと見上げた空に浮かんだ雲に”たおやか”という言葉がうかびました。私の勝手なイメージの”たおやか”の中に、優しさと強さを感じます。
先日来、ある方の乳癌の相談、というか話し相手になっていました。
実は私も乳癌だった?というかエコーには出ない初期だよとある方に言われ、まさかーと思ったすぐあとに、左腕が上まで上がらない、力が入らないと言う事に気がついて検査をしました。・・・・がエコーには映らないよといわれていたとおり科学的には何もでてきませんでしたが、私にははっきりわかりました。
病院に行くまでの1週間、何故私が乳癌なのかということに、悶々と悩み抜き苦しみました。そして、出した結論は、よし、自然療法しかないぞ!という確固たる確信でした。蒟蒻湿布、琵琶葉温灸、生姜湿布をお乳と子宮にしながら、様々な薬草茶を飲み、自然のものを食し、と徹底してやりました。
ずぼらな私でもやるときはやるのです。エヘン! やりながら色々自分を見つめなおし、考えるところが多々ありました。
あのときの体験が今、人様のほんの少しでもお役にたてていると、彼女と話しながら感じていました。
体験したからこそわかることって結構大きいです。
彼女とガンの話しをしていて、見えてきたことは、結局、自分で作ってしまったんだということ。出来てしまった事を悔やむより、その消滅する方法を考えながら、そこに至った自分を見つめなおすということが、より大切ということです。彼女に話しながら自分に言い聞かせているような感覚になります。
彼女の問題に、かっての自分を重ねて、彼女から私も勉強させていただいています。mさん、ありがとう。
体験したからこそわかること、そう、人は自分が体験しないと本当の痛みはズシンと解らないかもしれません。察したり理解したりはできるけれど。
だからと言って余計な苦しみはしないに越した事はありませんが。
私が60年の人生の中で数々の与えられた試練の大きさを今思うと、すべて成るようになっていたととても強く感じます。すべて興ったことが、今の自分に繋がっています。多分、どれ一つ欠けても今の私にはならなかったと思います。
悲しみも苦しみも絶望さえもです。
ちょっと表現がむずかしいけど、あの苦しみもが幸いだったと私のどこかで感じられます。なあんてわかったようなこと言っても、まだまだ、ありゃー、そんなこともわかんないのかいーと息子や連れ合いに言われる私ですー。あーあ。
 
最近、なんだか冴えない我が友、ラッキーママのことを思っていたら閃きました。
そうだ、デートしよう!汽車に乗って目的もなくどこかに行くなんていうのも、いいんでないかい?  二つ返事で「行くー」さて、私には沢山隠し玉があるのじゃぞ、ひとつ其の隠し玉で、彼女を楽しませようではないか、とニヤニヤしながら眠りについた



私は雲を見るのが大好きで、暇さえあれば空を眺めて雲を見ています。今、事務所の留守番をしながら、ふと見上げた空に浮かんだ雲に”たおやか”という言葉がうかびました。私の勝手なイメージの”たおやか”の中に、優しさと強さを感じます。
先日来、ある方の乳癌の相談、というか話し相手になっていました。
実は私も乳癌だった?というかエコーには出ない初期だよとある方に言われ、まさかーと思ったすぐあとに、左腕が上まで上がらない、力が入らないと言う事に気がついて検査をしました。・・・・がエコーには映らないよといわれていたとおり科学的には何もでてきませんでしたが、私にははっきりわかりました。
病院に行くまでの1週間、何故私が乳癌なのかということに、悶々と悩み抜き苦しみました。そして、出した結論は、よし、自然療法しかないぞ!という確固たる確信でした。蒟蒻湿布、琵琶葉温灸、生姜湿布をお乳と子宮にしながら、様々な薬草茶を飲み、自然のものを食し、と徹底してやりました。
ずぼらな私でもやるときはやるのです。エヘン! やりながら色々自分を見つめなおし、考えるところが多々ありました。
あのときの体験が今、人様のほんの少しでもお役にたてていると、彼女と話しながら感じていました。
体験したからこそわかることって結構大きいです。
彼女とガンの話しをしていて、見えてきたことは、結局、自分で作ってしまったんだということ。出来てしまった事を悔やむより、その消滅する方法を考えながら、そこに至った自分を見つめなおすということが、より大切ということです。彼女に話しながら自分に言い聞かせているような感覚になります。
彼女の問題に、かっての自分を重ねて、彼女から私も勉強させていただいています。mさん、ありがとう。
体験したからこそわかること、そう、人は自分が体験しないと本当の痛みはズシンと解らないかもしれません。察したり理解したりはできるけれど。
だからと言って余計な苦しみはしないに越した事はありませんが。
私が60年の人生の中で数々の与えられた試練の大きさを今思うと、すべて成るようになっていたととても強く感じます。すべて興ったことが、今の自分に繋がっています。多分、どれ一つ欠けても今の私にはならなかったと思います。
悲しみも苦しみも絶望さえもです。
ちょっと表現がむずかしいけど、あの苦しみもが幸いだったと私のどこかで感じられます。なあんてわかったようなこと言っても、まだまだ、ありゃー、そんなこともわかんないのかいーと息子や連れ合いに言われる私ですー。あーあ。
 
最近、なんだか冴えないらしい我が友、ラッキーママのことを思っていたら閃きました。
そうだ、デートしよう! 汽車に乗って目的もなくどこかに行くなんていうのも、いいんでないかい?  二つ返事で「行くー」さて、私には沢山隠し玉があるのじゃぞ、ひとつ其の隠し玉で、彼女を楽しませようではないか、とニヤニヤしながら眠りについた次の朝、「ごめん。腰やっちゃったー」あーーあ、隠し玉はしばらくおあづけと相成りましたが、そのぶんいいこともいっぱいありました。
なる様になっていたというわけです。
いつか、私とデートしてね。

このブログを再開して、私には書きたいことが山ほどあると気がつきました。
どんどん湧いてくるのですが、なにせここに座れるのは、限られた時間なので、残ねーん。家に帰ってからそうだ、あれも書こうこれも書こうと色々思うものの・・・。
ま、じんたか書きたいと思いますのでひとつよろしく。
たおやかな雲にトンボがとびかっている秋の日です。