中川米穀店はうちも毎週来ていただいています。
奥さんのお母さんが具合が悪いとき、頼まれてお宅にお邪魔して手当てをお伝えした事があります。
そのお宅に隣の住人が丁度遊びに来ていて、私はその方に初めて会ったのに産みの親にそっくりの雰囲気を持っていたので良く似た人がいるもんだなあと思っていました。
何の話しからか、その方がおばさんの友人だとわかって驚愕しました。だって私がおばさんにそっくりだなあとおばさんを思い出していたら、まさにおばさんの友達だったのですから。
しかもその方はほっぺたにガンが出来て、おばさんから私に友達がガンなんだけど何か方法はないかねえと相談されていました。
びっくりを通り越して、何か目に見えない大いなる存在を感じたものでした。
その方はあまり人の話しを聞く方ではないと話していてすぐわかったので、こういう方法もありますよとお話しだけしました。その後、まもなくなくなったそうです。
思えばあのころから、見えない糸がいろんなところで繋がって、ひんぱんにそんな事が興っていました。
私はすぐに忘れてしまうのですが、あのころからたくさんの病気の方と縁がついて一体なんだろうと思いながらも、お手伝いする事に一生懸命でした。
二つの病院を自転車にいっぱい荷物を積んで通った事もありました。
大腸がんと急性悪性リンパがんの2人はいまでも元気に社会復帰しています。
晦日に我家に駆け込んできた膀胱がんの青年は結婚して幸せにしているとつい先日ききました。その彼のお母さんがあるところで琵琶のエキスを大宣伝していたときいてああ、繋がっていってるんだなあと嬉しくなりました。
そして、信用されず離れていった方もたくさんいます。
そんなことできないとたいていは思うらしく、長年、治る方と治らない方両方見させてもらってとても大きな学びだなあと思います。
母を病院から引き取って自宅看護したいといった時、妹は猛烈に反対し、「一体お姉ちゃん何考えてるのさ。そんなことできるわけないでしょう」と私を批判し罵倒しました。
あの時は本当に苦しかった。
今思えば私の体験が私を突き動かし、体験の無い妹がそれを受け入れられなかったという事だっただけなのに。
長い、ただ祈って待つという時を経て、やっと母を自宅で看護させてもらった事を今なら妹に感謝できます。
そして、たくさんの方の病と縁があったからこその、母との最期の悲しくも嬉しい日々をもてたのだとつくづく思います。
悲しく苦しい数々の出来事は、ただあった、体験したそれだけなのだなあとやっと思えるようになったものの、どうかどうかすると、切ない涙を流している自分がいたりして。
矛盾だらけの私も私です。



すべては成るようになっていたのですから。

昨日、夫の母の祥月命日で皆で本家に集まってお参りし、午後からは先日亡くなった義姉の残っていたのど仏と大たい骨をお墓におさめに行きました。
一緒に行った8歳児が「ねえあーちゃん、人間は骨をお墓に入れて拝むのに、魚の骨は食べたらごみに棄てるよね。どうして?」いやあ、いいとこつくねえと思って色々私なりに説明しましたが、あなたなら何と答えますか?