化学物質過敏症

古い友人から日曜の昼下がり電話がきた。
彼女はいつも一方的に電話をかけてくる。
何故なら自分の調子の良い時にしか受話器を握れないから。
彼女は小学校から高校までの友達だったけれど、結婚して埼玉に行ってからは疎遠になっていた。
それが2年前、突然「あっつ、元気?」と電話が来た。
彼女の一方的な話に私は圧倒されただ聞いていた。
それから何度も電話が来て私は際限の無いような彼女の化学物質過敏症の話を自分の中で租借されないまま、でも彼女の苦しみ、壮絶な苦しみが伝わってきて聞くだけでも彼女の少しは助けになるかもしれないと1時間も受話器を握ってただただ祈るばかりだった。
去年の3月か4月に彼女から電話が来たとき、私は母の病気と向き合って辛い毎日を過ごしていたので、とても彼女の話しを聴けない自分がいて電話口の向こうで相変わらずとうとうと語る彼女に、「ごめん、今ちょっと・・・」「具合悪い?」「うん」と電話が切られてからの今回の電話。
相変わらず、私のことはほんのちょっとしか聞かず、あれから出版の話が出たこと、英語が分からないのに英語の歌を3回聞いただけで全部覚えてしまうこと、
薬草も自分を護るために毒素を出すので、その薬草すら自分にとっては毒にしかならないこと、こんな病気をあたえられたからこそ得る幸せもあることにきずいた事、那須に家をたてたのに、付近の畑の農薬にやられて大変なこと、自分は今ではなく未来に分かってもらえる身であること・・・・話は1時間にわたって続きました。
とうとう母が亡くなったことは言えませんでした。
彼女は自分が大変なので人のことを考えている余裕などないのです。
私は昨日、大きな気づきを彼女から貰ったきがしました。
電話を切った後、空が真っ青でこんな幸せな気持ちで空を見上げられることに
、夫が私のために昨日仕上げたデッキを又広げる作業をしている姿に、庭の芍薬の目の覚めるような真っ赤な美しさに、こんなに穏やかで、健康で夫とともにあることの幸せに、なにもかもが美しくデッキのペンキの匂いさえ幸せで、大いなるものに懐かれていることが体に伝わってきました。
何もかもが毒として自分の身も心も蝕んでいく彼女からの電話には大きな意味があると思ったことでした。
広げたデッキは完成して、夕食は長男たちとデッキで食べました。
ロウソクを灯して私は大満足でした。
それにしても、わが夫の大工仕事は惚れ惚れします。夫も大工しごとが好きなので、とてもいい顔をしていました。

私がアメリカに行っている間に、いとこが亡くなり、身寄りの無い彼女の葬式は私の姉夫婦がすべてやってくれていました。
いとこは画家でした。
親戚付き合いをしない人だったのですが、結局最後は親戚が面倒を見たことになります。
先日、姉に頼まれて夫にも手伝ってもらって、彼女のアパートの整理にいきました。
人間の最後は何度も見てきましたが、これはちょっとなんともいえない出来事でした。
何もかも生活すべてそのままに旅たった彼女が望むと望まないとにかかわらず、いとこたちが彼女の生前の荷物をどんどんごみ袋に詰め込むのをあの世にいる彼女はどんな思いで見ていたでしょう。
荷物を片付けている最中、私は彼女の残した赤い手帳をめくると、遺言と書かれたページを見つけました。
風呂はきらいだから湯灌はするな、無宗教ではでに葬式をあげて、遺骨は海に散骨して・・・。
姉は散々探したのに今頃出てきてももう遅いよとため息をついていました。
結局、お金のことも含めて、親戚である私たちが負担しました。
付き合いがないからと葬式にも出ず香典も勿論出さないいとこたちがいたのは私にとって信じられないことでしたが彼女の生前のそれがそうさせたのなら仕方のないことかもしれません。
ともかく、一応整理はつきましたがこれから遺骨をどうするか、私と姉とでお墓に入れるか、遺言どうり散骨するか・・・。
いつお迎えがくるか分からないけれど、あまり人に迷惑をかけない死を迎えたいものだと、いとこの死で思いました。