赦し

道新に載った水俣病の記事の一箇所を目にして涙が止まりませんでした。
近所からいじめられたとき、父親が娘に言った言葉です。
「あわてちゃならんばい。昔はみんな良か人だった。いじめられて腹が立つようじゃ一丁前じゃない」なんという広い心根の人なのだろうと感動しました。
すさまじいいじめと差別の中にあって、そういうふうに考えられるってなんという素晴らしいひとでしょう。
2,3日前押入れの整理をしていて中学から23歳までの私の日記を出して読んでみてびっくり。とうに記憶から抜け出ていたさまざまな私の心の葛藤がびっしり書かれていました。
その中で、祖母との葛藤がかなり私を悩ませていた事を思い出しました。
これまでの私の人生で人を恨むという唯一の人が祖母でした。11歳のとき、養女で一人っ子だった私に妹が出来ました。
それまで私を可愛がってくれていた祖母が手のひらを返したように、私をいじめ始めました。その時自分が養女などとは知らず、その理不尽な祖母の態度に傷つき、悩みぬいた青春時代でした。
時には殺してやりたいと思った程、私の心はズタズタでした。
母は私がグレルと思ったらしく、お前よくぐれないで大きくなったねえと大人になってからよく言っていました。
そんな祖母は93歳で亡くなりましたが、死の淵でうわごとの様に「あっこー、あっこー」と私の名前をよんでいました。
亡くなった時、私はもう2人子供がいましたが、なんの悲しみもなくやっと逝ったと思った程祖母に対して愛情をかんじませんでした。
所が祖母がなくなってから、よく彼女が私の為に一反風呂敷にいっぱいおかずやさまざまな物を入れて持ってきてくれた、その一反風呂敷を目にしたとたん、「ああ、私は愛されていたんだ。おばあちゃんは私を愛してくれていたんだ」と突然思ったのです。
仏壇の前でお詫びをしたいと涙が溢れてきました。
その時、めったなことでは実家に行きたがらなかったのに、「おい、たまには小樽にでも行くか?」と夫が言いました。私はその時、生まれて初めて心が通じ合うってこのことなのかとびっくりしました。
祖母に赦しを乞うて、今更ながら彼女のあのいじめの意味をはっきりとわかったのです。
うらんだりしてごめんなさいとこころの底から誤りました。
すべての事には意味があると今は思えますが、未熟だった私には全然分かっていなく、分かるのに長い時間がかかりました。
そういう体験があるので、新聞記事の言葉がよりいっそう私の胸を打ったのかもしれません。
赦しというのは、とことん底までおちないと、なかなか出来るものではないのかもしれません。